春冰について
あえて大まじめに問うてみたい。危機の時代に「文学」そして「人文学」は、「何をなすべきか」、と。
この問いは、どこかナイーヴに響きます。ここには流動化して先行きが不明瞭な時代「だからこそ」、人間にとって普遍的な認識枠組みの学知に意義があるのだという、淡い肯定的応答が秘されています。もちろん、「人文学」が混迷の時代に高度な知的道具箱として「役に立つ」のであれば、この問いは正当なものです。
ですが、その一方で事態はもっと恐ろしいほどに単純明快ではないでしょうか。私たちを包みこむ「生」は、私たちの気持ちとは関係なしに動きつづき、生成変化を繰り返します。星々は瞬き、草原はそよぐ。だが人間はその圏外に放り出されている。「法則」や「必然性」や「偶然」といった語は、観察者が現実を後付けで整理する道具にすぎない。「前世からの因縁」を嘆いた古の宮廷人と私たちは、そう変わらないのです。
そうした世界を生きた幾多の報われぬ魂が、過去のさまざまな文化表象にその痕跡をとどめているとすれば、むしろ意義も価値もないどころか、一切はまったくの徒労に終わるかもしれないという予感にこそ、「文学」そして「人文学」の足場があると言わねばなりません。
「春冰」という言葉を私たちがこの雑誌に冠したのは、こうした背景があります。一般に春冰は生類によろこばしい時季の到来を告げ、光・暖かさ・喜び・生命を喚起する反面、カタストロフィの予感・啓示・顕現です。堅牢に見える不動の塊にも亀裂が走り、やがて流れ去る運命にあります。当然、春冰の足場は安定せず、その上を歩くことは危険です。心之憂危若蹈虎尾渉于春冰(『書経』)。
いま、私たちは、たしかに春冰の上にいます。頬をうつ風に春の息吹をおぼえ、冰面に差す一筋の曙光に希望をみる。けれども、その足場は確実に脆さを増しており、ひろがってゆく亀裂をごまかすことはできない。だからこそ/にもかかわらず、春冰に立つひとがいる。その上を歩こうとするひとがいる。未だ知らざる「始まり」をつよく希求しながら、そして来たるべき「終わり」をひしひしと予感しながら。
私たちは、『春冰』という「余白/傍流margin, пробел」から始めたいと思います。文学や思想や文化との永遠の対話には「余白」が必要です。「私」に予期しえぬ洞察や知見は、「他なるもの」との真摯な「遊び」や「だべり」のなかで得られるものです。もちろんそうした「余白」を確保することは容易ではありません。「研究者」は短期間で成果を出すことに努め、「勤め人」は明日の労働のために生きます。時間もお金も体力も、つねに有限です。しかしそれでも「余白」をまもろうとする人びとが集まり、このたび『春冰』刊行の運びとなりました。
『春冰』は一種の文芸サロンでありたいと思います。そのためにアリマナフ(Альманах)という形式を採っています。日本語では「文集」や「文選」と訳されます。アリマナフは雑誌でもあり作品集でもあります。作家や詩人や思想家のテクストが掲載され、芸術文化思想が幅広く開陳される場です。こうしたジャンル的に幅広い雑誌形態を採ることで、私たちはゆとりのある「余白」を確保したつもりです。
しかるに告ぐ。「文学」そして「人文学」の真摯なる研究者翻訳者愛好者、そして自らの誠実なる探求者。来たれ、そして見よ。『春冰』はそうしたすべてのひとの「文」を予感している。
二〇二三年六月十五日
『春冰』創刊号・巻頭言より
(文:横江智哉+田村 太)